藤原 道綱 の 母
兄・藤原道隆と弟・藤原道長を産んだのは正妻扱いの藤原時姫だったため、藤原倫寧の娘が母だった藤原道綱の出世は遅れた。 991年(正暦2年)、藤原道綱は参議になったが、異母弟の藤原道兼・藤原道長はすでに権大納言(ごんだいなごん)になっている。
藤原道綱母が登場するのは二九二段「また傅の殿の御母上とこそは」 。 この章段の中で、藤原道綱母の和歌が紹介されています。 ※枕草子の章段数は底本によって違うためここでは比較的入手しやすい「角川ソフィア文庫 新版枕草子」に準拠しています。 薪こる ことは昨日に 尽きにしを いさ斧の柄は ここに朽たさむ この和歌は、お寺で法華八講(ほっけはっこう)という仏教の集会を催した際に藤原道綱母が詠んだもので、清少納言は 清少納言 たいへん素晴らしいお歌です と枕草子の中で褒めちぎっています。 藤原道綱母は和歌や裁縫が上手な美人として知られていたようなので、清少納言も一目置く存在だったのかもしれませんね。 女流日記のさきがけ「蜻蛉日記」
(955―1020) 平安中期の 公卿 (くぎょう)。 摂政 (せっしょう)兼家 (かねいえ)の二男。 母は『 蜻蛉 ( かげろう )日記』の 作者 として有名な 藤原倫寧 (ともやす)の女 (むすめ)。 991年( 正暦 2)に 参議 となったが、 異母弟 の道兼 ( みち かね)、道長はすでに 権大納言 (ごんだいなごん)になっていた。 これは母を異にしていたことも原因しているが、政治家としての能力が欠けていたことに由来しており、 官位 も 大納言 どまりであった。 病を得て出家し、ほどなく 寛仁 (かんにん)4年10月16日に薨去 (こうきょ)。 受領 (ずりょう)として 財力 を誇った 源頼光 (よりみつ)の 女婿 となって一時期、 頼光 の一条邸で生活を送ったことがある。
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