荻野 直正
城主荻野直正は、元亀元年(1570)織田信長より丹波奥三郡の安堵をうけたにもかかわらず、天正初年以降、逆にこの黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じた。
50歳。 本姓 は赤井。 幼名 は才丸。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 世界大百科事典(旧版) 内の 荻野直正 の言及 【丹波国】より … しかし長頼の軍事力も永続性がなく,64年 (永禄7)の長慶の死によって起こった三好政権の内訌の影響を受けざるをえなかった。 65年8月氷上郡の荻野直正は黒井城下に長頼を敗死させ,ここに三好政権の丹波支配も崩壊した。 以後奥郡荻野氏,多紀郡波多野氏,口郡内藤氏の三者鼎立状態が続くが,75年10月に至って織田信長は丹波征討を決意し,京都代官 明智光秀 を山陰道の司令官に据えた。 … ※「荻野直正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典| 株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
荻野直正ゆかりの地にある兵庫県丹波市の白毫寺。 (写真:イメージマート) 兵庫県の氷上高校の野球部員が、荻野直正の居城・黒井城でランニングをし、足腰を鍛えているという。 こちら 。 ところで、なぜ荻野直正は織田信長と対立したのか、その点を深掘りしてみよう。 織田信長の登場 丹波を制圧して日の出の勢いの荻野直正だったが、行く手を阻む勢力があらわれた。 織田信長である。 永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、畿内の政治情勢は一変した。 ところが、当初の直正は信長に抗することなく、素直に従った。 永禄13年(1570)3月、信長は赤井忠家に対して、家督の安堵状を与えた。 これこそが臣従の証であろう。 これにより、赤井氏の丹波奥3郡の支配が保証されたのである。
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