覚 信 尼
大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵 (かくえ) 上人、その次に孫の覚如 (かくにょ) 上人が第3代に就任した。 覚如上人は三代伝持 (さんだいでんじ) の血脈 (けちみゃく) を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図った。
44 28 I 関東時代の覚信尼 寄進し、「門徒共有」としました。 その廟堂が、のちに 谷たにて執終された時、覚信尼はそばで看取られ、葬儀・親は 恵を世話された方です。 一、覚 覚信尼はその廟堂を、敷地とともに聖人の「はかどころ」(墓所)に廟びょう堂どうり行いました。
しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものでありましたため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟達は寂莫の感を深めました。 そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました。 これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)です。 この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものでしたので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになりました。 大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第3代に就任しました。
(1224―1283) 鎌倉時代の浄土真宗の尼僧。 親鸞 (しんらん)の 末娘 。 母は恵信 (えしん)尼。 現存する覚信尼あての 書状 には王御前とある。 久我通光 (こがみちみつ)(1187―1248)に 女房 として仕え、兵衞督局 (ひょうえのかみのつぼね)といった。 日野広綱 (ひのひろつな)の妾 (しょう)となり、 覚恵 (かくえ)(1239―1307)を 生み 、広綱の 死後 、小野宮禅念 (おののみやぜんねん)と再婚、唯善 (ゆいぜん)(1266―1317)を生んだ。 親鸞没後、関東在住の 門弟 により廟堂 (みょうどう)が禅念所有の土地に建てられたが、のち覚信尼はその土地を譲られた。
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