戌 の 満水
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江戸時代中期の寛保2年(1742)、長野県と関東地方を襲った歴史的な洪水「戌の満水」。長野県内の南佐久郡から飯山市までの千曲川流域を信濃毎日新聞社の元記者がつぶさにルポ、大水害の全容を明らかにすると共に、その原因に迫ります。
戌の満水では、信濃川の上流の千曲川流域で、約3千人の死者が出たと言われていて、家屋流出も約6千戸、田畑の半分以上が流出や冠水の被害を受けたようです。 当時の人口は、現在の4分の1程度ですから、今でいうと1万人を超える被害になり、水害としては前代未聞の大災害です。 千曲川上流では、支流の土石流被害が甚大で、小諸市や上畑村(現佐久穂町)、金井村(現東御市)などで深刻な被害になりました。 また、松代藩城下の善光寺平周辺などでは氾濫被害が酷かったようで、田畑の多くも失われました。 このため、各地に慰霊碑や水位標などが残っています。 千曲川沿いの被害
戌の満水 (いぬのまんすい)は、 1742年 ( 寛保 2年)8月に 信濃国 (現在の 長野県 )の 千曲川 と 犀川 流域で発生した大 洪水 である。 「 寛保の洪水・高潮 」と呼ばれる本州中部を襲った大水害であり、大阪付近に上陸し 関東地方 を経て三陸沖に抜けた 台風 と前線が大雨の原因と考えられている [1] 。 概要 長野県小布施町にある洪水水位標。 地面が水位約6.9m で、一番上が、寛保2年の氾濫水位 10.7mを示す。 寛保2年が 壬戌 (みずのえいぬ)の年にあたるため、被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ぶ。
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