鍋島 直 茂
鍋島 斉直(なべしま なりなお)は、肥前 佐賀藩の第9代藩主。 第8代藩主・鍋島治茂の長男。 母は側室・福岡氏。 正室は池田治道の娘(浄諦院)。 側室に石井尚方の娘、石井本昭の娘など。 幼名は祥太郎。初名は直懿(なおたか)。鍋島直茂の生涯を見ていきましょう。 【目次】 1. 龍造寺の功臣・鍋島家 2. 家中の先導者となる 3. 肥前国の国政を任される 4. 佐賀藩の礎を築く 龍造寺の功臣・鍋島家 肥前国の名門一族の血脈 天文7(1538)年 、直茂は鍋島清房の次男として肥前国佐嘉郡本庄村の本庄館で生を受けました。 母は龍造寺家純の娘である華渓です。 幼名は彦法師丸といいます。 鍋島氏は、宇多源氏である佐々木一族の長岡経秀が鍋島村に居住したことに由来すると伝わります。 肥前国の小土豪ながら、曽祖父・経房は龍造寺家の主家にあたる少弐家の出身という家柄でした。 祖父の清久の代より龍造寺家に仕えたと伝わります。 父・清房も周防国の大内家との田手畷(たでなわて)の戦いで武功を挙げ、龍造寺家の発展に大きく貢献しています。
(1538―1618) 安土 (あづち) 桃山 ・江戸前期の武将。 肥前 の土豪 鍋島清房 (きよふさ)の長男。 1541年( 天文 10)春に小城晴気 (おぎはるけ) 城主 千葉胤連 (たねつら)の養子となるが、51年に千葉家を辞し佐嘉 (さが)(佐賀)に帰る。 のち龍造寺隆信 (りゅうぞうじたかのぶ)に仕え各地を 転戦 、84年(天正12)に隆信が島津・有馬軍との戦いで敗死したことにより、龍造寺体制内で指導性を発揮し、しだいに実権を掌握する。 豊臣 ( とよとみ) 秀吉 の朝鮮出兵令による参戦で肥前佐嘉領の統轄者としての地位を確定した。
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