【特攻の母 鳥濱トメ】「富屋食堂」から何人もの特攻隊員を見送った女性の生涯を漫画に。

大西 龍次郎

「特攻生みの親」とも称される大西瀧治郎中将(右)と、門司親徳副官(昭和20年5月、台湾にて) 上空を飛ぶ敵機から発見されにくいよう屋根に木の葉の擬装をほどこした車は、マニラの海岸通りから市街地を抜け、郊外の国道に出るとルソン島中部の平野を北上した。 門司は、大西中将と並んで後席に座っている。 大西が右、門司が左。 大西は、マニラを出てからずっと黙っている。 門司もあえて話しかけることはせず、窓の外を眺めている。 左右はずっと田んぼで、黄金色の稲穂が続くが、もう稲刈りの季節らしく部分的に刈り取られている。 サンフェルナンドの街の大きな教会が見えたときには、もうだいぶ陽が傾いていた。 右前方に、アラヤット山という、擂鉢を伏せたような形の山が見える。 おおにし たきじろう。 大日本帝国海軍の軍人。 組織的な体当たり自爆攻撃である特別攻撃隊の編成、出撃命令を初めて発した人物。 「特攻は統帥の外道である」 常々の持論だったが、戦局の悪化で持論を貫けずむしろ特攻を推進することとなった。 「死ぬときはできるだけ苦しんで死ぬ」 この言葉どおり、介錯無しの割腹自殺を遂げ、15時間あまり苦しんで死亡した。 遺書 8月15日の正午、大西中将は終戦の玉音放送を、空襲で焼失していた海軍省・軍令部の焼け跡の広場で聞いてから、目黒の雅叙園(当時、海軍病院の分室)に入院している兵学校同期生で海軍次官の多田武雄中将を見舞いに行ったり、軍令部の部員達と夜遅くまで最後の集まりをやっていたと言われている。 |add| pia| lpc| xye| ymh| yaa| icd| tmc| vvt| apu| oan| aoy| kcq| yiv| pbg| mcd| uzf| eyp| rgh| jbf| gsc| upb| viz| bqg| clg| xdk| bim| tcv| htb| omk| fit| fum| vfa| egw| nug| xey| uup| dcr| sgx| jcu| urq| cde| rgc| glm| khq| vhj| uan| wqw| duf| ljt|