大 内 義隆 陶 晴賢
家督相続 隆房が養子となった 陶氏 は 周防国 の 戦国大名 ・ 大内氏 の 庶家 ・ 右田氏 の 分家 であり、周防国守護代を務める大内氏の重臣の家柄であった。 また、少年時は美男として知られ、そのため 大内義隆 の寵童として重用された。 また、陶氏には代々の当主が本家・主君にあたる大内氏当主より 一字拝領 するという慣わしがあり、 元服 時には義隆の 偏諱 を受けて、 隆房 (たかふさ)と名乗った(弟の 隆信 (たかのぶ)も同様である)。 天文5年( 1536年 )6月以前に養父・興房から家督を相続し [3] 、天文6年( 1537年 )には 従五位下 に叙位されている。 天文8年( 1539年 )、養父・興房が死去。 大内家臣時代
陶晴賢(隆房)のイラスト. 陶晴賢(すえ はるかた)は大内義隆の家臣として仕えましたが、大内家中での文治派との対立、そして公家趣味に傾倒する主君・義隆への不満からクーデターを起こし、大内氏を乗っ取ります。. しかしそれも長くは続か
討たれたのは大内義隆(おおうちよしたか)、討ったのは大内義隆に重用されていた陶隆房(すえたかふさ)(後の陶晴賢(はるかた))です。 この記事の目次 大内義隆の一文字を拝領して「陶隆房」 大内義隆は月山富田城の戦いで大敗するも軍を立て直し歴代最大勢力に 大内義隆はこの敗戦で軍事面へ興味を失い武功派と対立 大内義隆は陶隆房に追い詰められ自害 『山口のトリセツ』好評発売中! 大内義隆の一文字を拝領して「陶隆房」 陶氏はもともと大内氏の分家筋で、代々大内氏に仕えてきました。 陶氏の当主は「主君である大内氏当主より一文字拝領する」という習わしがあり、 陶隆房も元服の際に当主・大内義隆から「隆」の文字を拝領 しています。 1539(天文8)年には、19歳で家督を相続。
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