小野田 寛郎 記者 会見
第2次世界大戦の日本の軍人で、敗戦後、最後に正式投降したのが小野田寛郎だ(文中敬称略)。. 小野田少尉は1974年3月9日、やっと自らの剣を
こちらからご覧ください。 3月12日、元陸軍少尉・小野田寛郎さんが30年ぶりにフィリピン・ルバング島から帰国した。 出迎えた母親は「よう生きて帰ってくれた。 あなたはえらい。 」とわが子をねぎらった。 1944(昭和19)年、情報将校としてルバング島に着任した小野田元少尉は、終戦後も投降の呼びかけを無視して潜伏していた。
以来、小野田(おのだ)寛郎(ひろお)と会ったことはない。 会おうとも思わない。 そのころ、マニラ駐在は朝日新聞だけで「ルバング島で日本兵1名を射殺、1名は逃走」という72年10月20日朝刊は、朝日の特ダネだった。
和歌山出身の小野田寛郎元少尉と東京・八王子出身の小塚金七元一等兵らしい」 終戦から27年もたって、まだ戦い続けている日本兵がいたのだ。 私は当時、社会部遊軍のサブキャップ。 夕刊の原稿を書きながら「現地に行かせてくれ」と何度もデスクに〝陳情〟した。 編集局幹部のOKが出たのは同日夜。 社会部の現場取材用リュックに妻に届けさせた下着を詰め込むと、翌朝、マニラ行きのNW機に乗った。 リュックには非常用の食料や寝袋、懐中電灯、長靴などが入っている。 2、3日の野宿もできる。 現場取材の成否は出足で決まる。 1日遅れの出発に私はあせりを感じていた。 フィリピンはマルコス政権下、戒厳令が敷かれている時代だった。 マニラ到着は土曜日の午後。 ルバング島はマニラの南160キロ、南シナ海に浮かぶ孤島である。
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