鳶 ヶ 巣山 砦
永禄5年(1562)、毛利元就が尼子攻略のために鳶ケ巣山に築城した山城である。尼子との戦いで当城は戦略的重要性をもち、とくに元亀2年(1571)の高瀬城攻略の際、吉川元春の拠点となった。毛利氏は出雲平定後、当城を大野氏に任せたという。
更新日:2023年3月16日 天然の地形を利用した難攻不落の長篠城でしたが、大きな弱点がありました。 それは宇連川を挟んだ対岸にある鳶ヶ巣山です。 なぜ、ここが長篠城の弱点となるのか、鳶ヶ巣山に登ってみるとよく分かります。 ここから長篠城内の様子が丸見えなのです。 武田軍は長篠城を取り囲んだとき、鳶ヶ巣山を中心に5ヵ所の砦(とりで)を築きました。 それぞれ姥ヶ懷砦(うばがふところとりで)、君ヶ臥床砦(きみがふしどとりで)、鳶ヶ巣山砦、中山砦(なかやまとりで)、久間山砦(ひさまやまとりで)と呼ばれました。 徳川家康の長篠城攻め 元亀(げんこう)2年(1571)に武田信玄の軍門に降った長篠城でしたが、その2年後に徳川家康は長篠城を攻め落とします。
鳶ヶ巣山砦 新城市乗本 鳶ヶ巣山砦の主郭跡に建てられた「長篠之役鳶ヶ巣陣戦歿将士之墓」。 鳶ヶ巣炎上、 勝頼を走らす 「たわけ者っ」 設楽原茶臼山の本陣地で織田信長の怒声が響き渡った。 天正三年 (1575)五月二十日、織田・徳川連合軍三万八千と武田勝頼率いる一万二千の軍勢が設楽原を流れる連吾川を挟んで戦機の熟するのを窺っていた。 この日、織田信長の本陣では織田・徳川の諸将が集まって軍議が開かれていた。 信長に怒鳴られたのは徳川家康の重臣酒井左衛門尉忠次であった。 忠次は設楽原に進出した武田軍の後方を衝き、兵糧を焼き、退路を断つために鳶ヶ巣山砦とその支塁に対する夜討ちを信長に献策したのである。 それが、並居る諸将の前で罵倒されたのである。
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