事 大 党
事大党 事大党 朝鮮王朝で清朝と結び、改革を抑えようとする保守派。 朝鮮王朝 (李朝)の末期に、開化派の 独立党 が、清朝と結ぶ保守派の閔妃一族などを形式にとらわれる事大主義者であると批判して名付けられた。 このような名称の政党が存在したのでないが、独立党に対抗する勢力として存在を強め、 甲申政変 を失敗に終わらせ、日清戦争後はロシアと結んで政権を維持した。 その思想的な背景には、朝鮮は明の儒教伝統の正統な継承者であり、周辺諸国を夷狄と考えて、対等な交渉はあり得ないする「 小中華思想 」であった。 12章3節 用語リストへ Next 印 刷 印刷画面へ ページの先頭へ Copyright© Y-History 教材工房 All Rights Reserved.
事大党 ( じだいとう 、 朝: 사대당 、サテダン)は 李氏朝鮮 末期の 保守的 な党派に対する、 開化派 からの呼称。 別称 守旧派 。 1882年 の 壬午事変 から 日清戦争 に至るまで朝鮮の政界を10年間支配した。 1882年 壬午事変で 大院君 を退けた 閔氏 一族を中心に形成され、 日本 と結んで 清 からの自主 独立 と 政治 の革新を主張する独立党( 開化派 )に対し、伝統を守って 宗主国 の清への臣属を主張し 政権 の維持を図った。 閔一族が 袁世凱 邸に特使を度々派遣、その意見を諮詢したことから、事大党には袁が推薦した閔慶植、閔泳駿、閔泳煥、趙秉式らが属した。
事大主義 ,指小國應該以服從大國來保存自身的一種 意識型態 ,與 朝貢 秩序相關,通常出現在屬邦與 宗主國 之間,古代 朝鮮半島 上的 新羅 、 高麗 和 朝鮮王朝 三王朝的外交政策以服侍中國為主要目標。 「事大」一詞來源于《 孟子 》的「以小事大」。 如在朝鮮王朝末期(十九世紀末),主張效忠 清王朝 、反對 日本 干預的人們被稱為「 事大黨 」。 事大主義的形成與傳統的華夷秩序有密切的關係。 由于朝鲜长期奉 中国 为大国及自己的 宗主国 ,视 中原王朝 为 中华 ,故称自己为小中华(有「中华第二」之意),是為所謂的「 小中華思想 」,而忠效中国的政策即为事大主義。 事大主義也被 韓國 當代的部份學者認為是朝鮮王朝末期妨礙朝鮮近代化的原因之一。
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