戌 の 満水
寛保二年 戌の満水の史実を歩く 信州の教育文化遺産 幕末~明治 信州の教育文化遺産 大正~戦前 長野県の近代「長野県町村誌」とその時代 長野県10郡「古跡名勝絵図」 ドローン映像 ロケ映像 探し方 キーワードから探す エリアから探す 年代から探す 調べ方(パスファインダー) 調べ方(パスファインダー) Q&A 長野県下の図書館はじめ、博物館、文書館等には膨大な地域史料が保存されています。
戌の満水では、信濃川の上流の千曲川流域で、約3千人の死者が出たと言われていて、家屋流出も約6千戸、田畑の半分以上が流出や冠水の被害を受けたようです。 当時の人口は、現在の4分の1程度ですから、今でいうと1万人を超える被害になり、水害としては前代未聞の大災害です。 千曲川上流では、支流の土石流被害が甚大で、小諸市や上畑村(現佐久穂町)、金井村(現東御市)などで深刻な被害になりました。 また、松代藩城下の善光寺平周辺などでは氾濫被害が酷かったようで、田畑の多くも失われました。 このため、各地に慰霊碑や水位標などが残っています。 千曲川沿いの被害
概要 長野県小布施町にある洪水水位標。 地面が水位約6.9m で、一番上が、寛保2年の氾濫水位 10.7mを示す。 寛保2年が 壬戌 (みずのえいぬ)の年にあたるため、被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ぶ。 信濃国の千曲川・犀川流域では 旧暦8月1日 (1742年 8月30日 )の被害が特に大きく、270年以上を経過した現在でも お盆 の 墓参り とは別に、その犠牲者供養のため 新暦 の 8月1日 に墓参をする風習が残っており [2] 、この日を特別の休日として採用情報に掲載する企業もある。 その被害の大きさは、各地の伝承や文書記録、慰霊碑などによって伝えられているが、流域全体で2800人以上の死者を出し、田畑の流出も広範囲に渡る未曾有の大災害だった [3] 。
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