南部 利 済
南部 利済(なんぶ としただ)は、江戸時代後期の大名。 陸奥国盛岡藩の第12代藩主。 官位は従四位下・信濃守、左少将。 脚注^ 『日本人名大辞典』及び『岩手県史』参照^ 文政8年の江戸武鑑参照^ 須原屋版の
この時期の南部藩主は、第十二代藩主南部利済だった。 利済の父の南部利謹は、乱行により廃嫡謹慎させられた人物で、油町の町人の妻を強引に側室にし(油御前)、昼間から側室の部屋に入り浸り情事にふけるなど、非常に好色であったと伝えられる。 利済はこの南部利謹と油御前との間に生まれ、父が死去すると、浄土真宗の願教寺に出家していた。 しかし文政8年(1825)、病弱だった第十一代藩主南部利用が嗣子なくして没し、利済がその跡を継いだ。 利済は、母の油御前と先夫の間に生まれた異父兄の石原汀を重用するなどしたことから、一揆衆には「油御前の浮気の結果、南部利済が生まれた、利済には南部氏の血が流れていない」という噂が流された。
陸奥(むつ)盛岡藩家老。藩主南部利済(としただ)に重用され,新宮凉庭(りょうてい),佐藤信淵(のぶひろ)をまねいて殖産興業をすすめる。冷害,凶作,同僚の反対による藩政激動のなか,嘉永(かえい)7年蟄居(ちっきょ)を命じられた。文久2年4月17日死去。60歳。
これまで、南部利済は三閉伊一揆を研究する人達の 立場から、苛政をおこなった為政者という視点で評価 されてきました。 それも一面ですが、人間は多面性を もった生き物です。 その点、藩政全体の中での追求は どれほどなされていたかについて、以前から疑問はな かった訳ではありませんでした。 私たちは、「近世こもんじょ館講座」と銘打って、 月一度、岩手県立図書館を会場にして、三時間程度で はありますが、有志集うて歴史講座を開催していま す。 十一月は、系図を読む─南部利済─がテーマで す。 次ぎに示す史料は南部家文書・沢田家文書(家老楢 山佐渡関係文書)を中心としたものですが、これまで 語られることが無かった利済像が見えてきます。 偏っ た史料の収集は行っているつもりはありません。 人を
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