戌 の 満水
戌の満水では、信濃川の上流の千曲川流域で、約3千人の死者が出たと言われていて、家屋流出も約6千戸、田畑の半分以上が流出や冠水の被害を受けたようです。 当時の人口は、現在の4分の1程度ですから、今でいうと1万人を超える被害になり、水害としては前代未聞の大災害です。 千曲川上流では、支流の土石流被害が甚大で、小諸市や上畑村(現佐久穂町)、金井村(現東御市)などで深刻な被害になりました。 また、松代藩城下の善光寺平周辺などでは氾濫被害が酷かったようで、田畑の多くも失われました。 このため、各地に慰霊碑や水位標などが残っています。 千曲川沿いの被害
寛保2年(1742)の8月,信濃の北部を流れる千曲川・犀川が大水害をおこした。この水害によって多くの被害がもたらされた。この水害のことを北信濃では「戌の満水」と呼び習わしている。長野市立博物館には,この「戌の満水」の被害状況をあらわしたといわれる絵図面が伝わる。
2分14秒. 7 長野市七瀬・鶴賀・ 笑寺・豊野駅. ・七瀬観音寺 鶴賀(旧七瀬村) 三界萬霊等. ・ 笑寺(みょうしょうじ) 千曲川大洪水水位標. ・本堂内の柱「寛保二壬戌年八月二日大満水此所迄到」. ・豊野駅前地蔵堂 流死人菩提碑. 4分59秒. 8-1 上高井郡
寛保二年江戸洪水 (かんぽうにねんえどこうずい)は、 1742年 ( 寛保 2年)の 旧暦7月 から 8月 にかけて 日本 本州 中央部を襲った大 水害 「 寛保の洪水・高潮 」で 江戸 が被った被害である。 経過 洪水前 1742年 8月28日 (寛保2年 旧暦7月28日 )頃より 台風 によるもの [1] とみられる 暴風雨 が 畿内 を襲い、 関東 でもこの日以後雨が降り始めた。 翌々日の 8月1日 の夜に入ると江戸では最初は雨とともに北東の激しい風が吹き始めていたが、夜四ッ時ころから激しい南風に変わり激しい荒に見舞われた(『 続むさしあぶみ 』)。 災害 寛保洪水位磨崖標(埼玉県秩父郡長瀞町)
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