穴山 のぶ ただ
穴山信君(あなやま のぶただ)といえば、やはり「裏切り」のイメージが強いという方も多いのではないでしょうか。 実際に小山田信茂と同様、落ち目の主君・武田勝頼を裏切ったために不忠者として語られることがほとんどです。 ただ、裏切りの事実とは異なり、当時の信君の生涯についてはあまり知られていません。 そこでこの記事では信君の生涯を紹介していくとともに、主君の裏切りに至った過程、その原因等を考察していきます。 【目次】 1. 武田一門・穴山氏の歴史 2. 出生から家督相続に至るまで 3. 信玄治世期の活動! 隣国駿河に精通した「今川通」 4. 勝頼治世期の活動! 先見性と立ち回りのうまさが光る 5. 内通に成功するも、不幸は突然訪れる… 6. おわりに 武田一門・穴山氏の歴史
穴山氏 (あなやまし)は、 武田氏 一族で 甲斐国 の 国人 領主。 家紋は 三つ花菱 。 戦国時代 末期まで甲斐南部の 河内地方 (現在の 西八代郡 と 南巨摩郡 の一帯)を領して甲斐国内で領域権力を及ぼした勢力の一つ。 婚姻や養子縁組で代々 武田宗家 と姻戚関係を結んで甲斐武田勢の重臣となり、 甲州征伐 で宗家が滅亡した後はその名跡を継承して武田氏を名乗った。 来歴 穴山氏の成立 諸系図によれば、穴山氏は 南北朝時代 の甲斐守護・ 武田信武 の子である 義武 (修理大夫)を初代とする [1] 。 義武は 巨摩郡 逸見郡穴山( 山梨県 韮崎市 穴山町)を 本貫 とし、穴山姓を称したという [2] 。 巨摩郡穴山は 甲府盆地 の北西端に位置し、 七里岩 と呼称される台地上に立地する。
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